2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」    入江幸男

講義題目「アプリオリな知識と共有知」


第五回講義 (2008年6月4日)(訂正版)


第2,3,4回に「共有知」の三つの定義は全て、共有知を個人の知(信念)に還元しようとするものであった。そのような立場では、共有知を旨く定義できないことを示そうと試みたが、中途半端な批判に終わった。

定義として失敗していることを示すには、定義が満たすべき条件を満たしていないことを示すことが必要である。したがって、§3と§4の批判では、それらの定義が以下の条件を満たしていないことを示すべきであった。

 

共有知の定義が満たすべき条件

条件1:我々が「共有知」としてとりあえず理解している特徴を、その定義が表現しているか、あるいはその定義から導出することが可能である。

    条件2:共有知は実現可能であるので、定義項もまた実現可能でなければならない。

条件3:共有知はそれが成立していることもまた共有されているので、定義項が実現されていることもまた共有知になりうるのでなければならない。

 

反射的定義は、条件2と条件3を満たすことが出来るのだろうか?

 

個人主義に基づいた定義の批判はペンディングにして、次に、個人の知に還元されない「私達の共有知」の例を示し、それら知が個人の知に還元されえないことを証明しよう。

 

§5「私」の実践的知識から「私達」の実践的知識へ

 

1、実践的知識とは何か

「実践的知識」には、二つの意味がある。多くの人々がこの言葉で理解するのは、「実際の仕事に役に立つ知識」いわゆる「実用的な知識」であったり、実際の仕事を効率よく成し遂げるためのスキルやノウハウのことを意味する。もう一つの意味は、アンスコムが定義した意味である。(この二つの意味は、実は深いところで関係しているという指摘もある。(Kieran Setiya ‘Practical Knowledge’))

ここで「実践的知識」と呼ぶのは、アンスコムが、『インテンション』(1957、第二版1963)の中で提案した概念である。ここでは、以下の2著を引用しながら説明する。

アンスコム著『インテンション』(第二版の訳)管豊彦訳、産業図書、1984年。

菅豊彦著『実践的知識の構造』勁草書房、1986

 

「何が意志行為をそうでない行為から区別するのであろうか。私が提案する答えは、「意志行為とは、ある意味で用いられる『何故?』という問が受け入れられるような行為だ」というものである。」

 

『何故?』の問が受け入れられない場合とは、どのような場合か。

1、「私は自分がそういうふるまいをしていることに気づいていなかった」という答えが返ってくる場合である。

  つまり、自分が何をしているのかを知らなかった場合である。

2?、当人がその行為に気づいていても、「それは自発的ではない行為だったのだ」と答える場合である。しかし、「自発的ではない行為」とは、意志についての理解を前提するので、説明として適切ではない。

アンスコムは、4つの非自発的なものの例をあげる。

  (a)腸のぜん動

  (b)うつらうつらしていて、ときどきはっとして身体全体を反射的に動かす動作

  (c)「彼は自分の手を反射的に(非自発的)に引っ込めた」

  (d)「彼を傷つけてやろうとして為したその一撃によって、私は意図せざる利益を彼にもたらした。」

アンスコムは、(b)のクラスを「意志」「意思された」「自発的」「非自発的」といた概念を用いないで規定することを試みる(§8)。アンスコムは、(b)は「観察にもとづかないで知っている事柄のクラス」に属するという。

 

2、「私はそれをなしていることを知っていたが、しかし観察によって初めてそれを知ったのだ」という返答も「何故」の問いを退けるものである」「例えば、〔あるボタンを押して〕自分が道路を横断する際の交通信号灯を点滅したのだということにはじめて気づいたような場合である」邦訳p. 27

 

 

■人間の振る舞い(動作、動き)の分類

 アンスコムは、人間の振る舞いを次のように分類する(Anscomb, 前掲書、§16、菅、p.81

(1)「私が何をしているのか」を知らない場合。(§6)

 「じぶんがそのような行為をしていることに気づかなかった」という返答が還ってくる場合。

<事例>

・板を鋸で挽いているときに、大きな音を立てて隣人に迷惑をかけていることに気づかなかった。

・ホースを踏んでいることに気づかなかった。

・オイディプスは、ライオスを殺すとき、父親を殺していることを知らなかった。

*我々はある行為を「ある記述の下で」は知っているが、「他の記述のもとで」は知らなかった、ということがある。」

*この行為を知ることになるのは、人から指摘されるなどのきっかけによって、観察や推論によって知ることになる。

(2)「私が何をしているのか」を知っている場合。

2.2)「あなたは何をしているのか」に観察や推論によって答える場合。

意図せざる行為に、(a)自分で気づく場合と、(b)人から指摘されて気づく場合。

(a)自分で気づく場合

「例えば、〔あるボタンを押して〕自分が道路を横断する際の交通信号灯を点滅したのだということにはじめて気づいたような場合である」邦訳p. 27

「彼を傷つけてやろうとしてなしたその一撃によって、私は意図せざる利益を彼にもたらした」(邦訳、p.24

  (b)ひとから指摘されて気づく場合

上の(1)の気づいていなかった行為を、指摘されて、観察に基づいて知る場合。

例えば、間違って風邪薬を飲んでいることを、指摘されて、観察に基づいて知る。

 

  <境界事例>

  (c)腸のぜん動

「自分の身体がそのような動きをしているということを観察や推論による以外に知りえない」邦訳 p.27)   

(d)「彼は自分の手を反射的に(非自発的に)引っ込めた」

     脚気の検査で、ひざが上がっていることを観察によって

「たとえば、医者があなたの膝を槌でたたくとき、脛が反射的に上がるということをあなたは目を閉じていても知りうるが、しかし、あなたにそれを告げ知らせる感覚を同定することはできないだろう。」邦訳、p.27 

(c)について「私の腸はぜん動運動している」とは言っても「私は腸をぜん動運動させている」とは言わない。とか(d)について「私のひざが上がっている」とは言うが、「私はひざを上げている」とは言わない。この理由で(c)と(d)は、観察や推論によって知られる身体の状態ではあるが、「私は・・・している」という知の対象とはならないようにおもわれる。しかし上記の場合にも、「私は・・・している」という言い方がされることが決してないとは言い切れない。(これは曖昧なケースである。)

 

2.2)「あなたは何をしているのか」に観察や推論によらずに答える場合。

2.2.1)「あなたは何故・・・しているのか」に答えられない場合。

  この事例について、アンスコムはのべていないが、次のような場合が考えられる。

例えば、行為の無意識の理由を、分析医に教えられるような場合。

例えば、窓をあけるように催眠術をかけられた後で、窓をあけたときに、「なぜ、窓をあけるのですか」と問われて、「少し暑かったから」と答えるとき、その答えは、正しい答えなのだろうか。その問答の後で、催眠術にかけられていたことを教えられ、本当の原因を教えられた場合。

 

2.2.2)「あなたは何故・・・しているのか」に答えられる場合。

2.2.2.1)「あなたは何故・・・しているのか」に観察や推論によって答える場合。

*自分の四肢の位置や状態

「人は通常観察に基づかないで自分の四肢の位置や状態を知っている」(§7)

「うつらうつらしていて、ときどきはっとして身体全体を反射的に動かす動作」(§7)

 

「この(b)のクラス[「うとうとしていて・・・」の例]のものは、観察に基づかないで知られる身体の運動のクラスであり、それは純粋に物理的表現によって記述されるものである。またこの場合、観察に基づかないで知られるような、身体運動の原因は存在しない。」邦訳、p. 28

 

注1:これは知識だといえる。なぜなら、ここには正誤の可能性が成立するからである。なぜなら、「彼は知っている」と「彼は知っていると(単に)思っている」との対比が成立するからである。これにたいして、「私は歯が痛い」では、「知っている」と「知っていると思っている」との対比が成立しないので、正誤の可能性がなく、知識であるとはいえない、とアンスコムは言う。

これに対して、「痛み」が体のどこにあるのかは感覚であって、知識ではないとアンスコムは言う。しかし、感覚についての言明は知識ではないのか?「彼は歯が痛い」というのは、正誤がありうるので、知識になるのだろう。もし彼自身が「私は歯が痛い」という言明が知識でないとすれば、それは何だろうか。それは、うめき声と同じであるのかもしれない。あるいは、「私は歯が痛いと宣言する」というような宣言型の発話だといえるかもしれない。なぜなら、それには宣言には、真理値はないからである。

 

2.2.2.2)「あなたは何故・・・しているのか」に観察や推論によらずに答える場合(心的因果性)。

   (a)心的原因

   (b)動機(意図的行為)

 

(a)心的原因  

「観察に基づかないで知られるものの内には、身体の運動のみならず、その原因も含まれている。」(§8)

「例えば、「どうしてそんなにびっくりして、飛び下がったのか」「あのワニが大きな吼え声をあげたので、それが私を飛び下がらせたのでだ」(ここで、私は自分がワニのほえるのを観察していない、と言っているのではなく、それが私をとびさがらせるのを観察していないと言っているのである。)しかし、それに対して(b)のような例[「うとうとしていて・・・」の例]においては、運動の原因は観察をとおしてのみ知られうるのである。」邦訳、p.28

 

「窓から顔が突然ぬっと現れてびっくりして飛び上がったのだ」

  

「原因と理由を区別することが困難な文脈があることを注意しなければならない。例えば、「何故あなたはテーブルからコップを叩き落してのか」という問に対して、「しかじかのものを目撃し、そのためびっくりして飛び上がったのである」と直ちに答えるような場合である。

 

注1:「心的原因は行為の場合に成立する(「軍楽隊の演奏に刺激されて、私は行ったり来たりあるきまわっているのだ」)のみならず、感情やさらに思考においてすら可能である

注2:恐れや怒りといった感情の場合、心的原因と感情の対象の区別が大切である。同一の場合と異なる場合がある。

「子どもが階段の踊り場で何か赤いものを目撃し、あれは何かと尋ねたのに対して、(彼の乳母はサテンといったのであるが)それはサタンだと言ったと思い込み、ひどくおびえたとする。子どもが恐れている対象は布切れであるが、彼の恐怖の原因は乳母の言葉である。」邦訳、p.30 

注3:「心的原因」は心的出来事つまり、ある思いや感情、あるいは心像である必要はなく、それはドアのノックの音であっていい。しかし、心的原因が心的出来事でない場合、それは当人によって知覚されたものでなければならない。したがって、この意味で、心的原因はかならず心的出来事であると言おうとするのであれば、私には依存はない。」邦訳、p.33

「心的原因とは次のような特定の問に対して、当人が記述するところのものである。すなわち、「何があなたにその行為や思考や感情を引き起こしたのか」「あなたは何を見たり、聞いたり、感じたりして、あるいは、どのような考えや心像が生じてそれをすることになったのか」このような問に対して当人が記述するものが、心的原因である。」邦訳、p.33

しかも、ここでのこの問に対する答えは、心的出来事であるはずであり、したがってすでに知られているので、観察によらずに答えられるのである。

 

注4:「なぜ蛇を避けたのか」と問われて、観察によらずに「蛇が怖いからだ」と答えるとき、これは行為の心的原因である。しかし、さらに「なぜ蛇が怖いのか」と問われて、「なぜか判らないが、怖いのだ」と答える場合がある。このとき、この感情には心的原因がないことになる。観察や推論によって知られる原因はあるだろう。

 

注5:「この種の因果性、つまり「心的因果性」はヒュームの因果概念の説明と整合的になり得ないということである。したがって、ヒュームの因果性の分析を高く評価する人々にとっては、このような心的因果性はまったく視野のうちには入ってこないであろう。」邦訳、p.31 ちなみに、心的因果性は、心的原因と動機に分けられる。ただし、心的原因と動機の境界事例もある。

 

(b)動機

 a<過去指向型の動機> 復讐、感謝、後悔、哀れみ

   (善悪の観念が含まれている)

 b<動機一般>虚栄心、愛情、好奇心など

   (その行為をこの光のもとで眺めよ)

 c<未来視向型の動機(意志)>
    〜するために、目的を述べる言明に見られるように未来の出来事へ言及

 

2、「実践的知識」の定義

アンスコムは、「あなたは何をしているのか」という問、また「あなたは何故・・・しているのか」という問に、観察や推論によらずに即座に答えられる場合があることを認めるが、その場合の答えが、「実践的知識」であると考えている。つまり、意図的行為を、実践的知識を伴う行為として定義するのである。彼女がそれを説明している比較的まとまった箇所を2つ引用しよう。

 

■引用1

「(a)出来事の記述が、形式的に、実現された意志の記述であるようなタイプに属し、(b)その出来事が(われわれの規準によって)事実、意志の実現である場合、実践的知識の本性についてトマス・アクィナスによって与えられた説明が成立する。すなわち、「知られる対象から導かれる」「理論的」知識と異なり、実践的知識とは、「実践的知識が理解している当のものの原因となるようなもの」である。これは、実践的知識が様々の結果を生み出すための必然的条件であると見なされるということ、あるいは、しかじかの仕方でかくかくのことを為そうという観念がそのような条件であるということ以上のことを意味している。つまり、実践的知識なくしては、生じてくるものは――意志の実現という――記述の下に入りえないのであり、この記述の特性を我々は今まで考察してきたのである。」(邦訳、pp.166-167

 

アンスコムにとっては、「実践的知識」の先行研究は、アリストテレスとトマスであった(Cf. §33)。ここでの、理論的知識と実践的知識の対比は、オースティンがいう事実確認型発話(constative utterance)と行為遂行型発話(performative utterance)の区別に非常に似ているように思われる。(アンスコムのこの本は1957年に出版されており、オースティンは1960年になくなり、”How to do things with words”は死後の1962年に出版されている。彼は1956年に’Performative Utterances’ という論文を発表している。アンスコムは1946年から24年間オックスフォードの特別研究員であり、オースティンは1933年から(戦争の間を除いて)亡くなるまでOxfordで教えていたので、両者の間に影響関係があるかもしれないが、入江にはよくわからない。)

 

■実践的知識と行為遂行型発話(performative utterance)の比較

行為遂行型発話との類似性:その類似性は、<オースティンの行為遂行型発話では、「私は・・・と約束します」という発話をすることが、私が約束をするための必然的条件である。この発話なしには、私の行為は、約束という記述のもとに入りえない>といことを考えてみればわかる。しかし、違いもある。

差異1:行為遂行型発話では、それを発話することが、その行為が成立するための必要条件であるのに対して、実践的知識では、それを発話することが、その行為が成立するための必要条件なのではない。必要なのは、それを知っていることである。それを信じているとは、入江の理解では次のとき、そのときに限る。「何をしているのか」と問われたならば、「私は・・・している」と答えられるときである。

差異2:オースティンの行為遂行型発話は、真理値を持たず、その代わり適合性(適/不適の区別)を持つのに対して、アンスコムの実践的知識は、知識であるので、真理値をもつといことである。「何をしているの」と問われて、「コーヒーを淹れているんだよ」と答えるとき、この答えは、自分の行為を記述している。

 

宣言型発話との類似性:実践的知識は、真理値を持つという点において、行為遂行型発話の中でも、宣言の発話に類似しているように思われる。サールの発語内行為の分類によれば、宣言型発話(declarations)は、ある意味で特殊である。主張型発話では、我々は言葉を世界にfitさせるのだが、約束や命令では、世界を言葉にfitさせる。(表現型では、fitの方向はない)。宣言型では、fitの方向は双方向なのである。野球の審判が「ストライク」と宣言することにより、ボールはストライクゾーンの中を通ったことになり、またボールがストライクゾーンを通ったので審判は「ストライク」と宣言したのである。

  (サールの言語行為論については、20041学期の第2回、第3回講義のノートを読んでください。)

 差異1:宣言には間違いが無いとすれば、実践的知識とはことなる。またもし宣言に間違うときがあるとすれば、そのときには、世界を変えるのではなくて、宣言を変えなくてはならないので、実践的知識とは異なる。

 

*アンスコムは、実践的知識が間違っているとき、コヒーを作っているつもりが、ココアの粉を使っていたという場合、間違いは行為のほうにあるのであって、行為を修正すべきであるという。それは丁度、「命令に間違った仕方で従う」ときに、間違いが命令のほうにあるのではなくて、世界をそれに併せなければならないのと似ている、とアンスコムはいう(§32、邦訳p. 108

「何をしているのか」と問われて、「コーヒーを淹れているんだよ」と答えたときに、「それはココアだよ」と指摘されたとしよう。このときに、「コヒーを淹れている」というのが自分の行為の記述であれば、それは記述として間違っている。しかし、この指摘を受けて訂正されるのは、行為のほうであって、返答のほうではない。

「何をしているつもりなのか」と問われて、「コヒーを淹れているつもりだよ」と答えたときに、「それはココアだよ」と指摘されたとしても、「私はコーヒーを淹れているつもりだよ」という私の意図の記述は偽とはならない。それの真偽は、私の行為のとは独立している。私の意図と行為が一致していなかったのである。私は、行為を意図に合わせるべく、行為を修正するだろう。

しかし、アンスコムの実践的知識は、行為の意図を記述しているのではない。なぜなら、それならば、記述がなくても行為の意図は存在することになり、行為もまた存在することになる。しかし、実践的知識は、それなくしては行為が成り立たないような必要条件であるので、

<実践的知識は、行為の意図の報告である>と考えることができるだろう。ここでいう「意図の報告」とは、すでにある意図を記述して報告することではなく、意図が意図の報告として初めて成立するようなものとして理解することができる。ここでいう「意図の報告」とは言語で表現された意図そのものである。

 

■実践的知識と感覚の報告との比較(とりわけ未完成)

「私は歯が痛い」と「私は歯が痛いと信じている」の区別がないので、「私は歯が痛い」には正誤がない。それゆえに、それは知識ではない、とアンスコムはいう。(本当にそうだろうか?)

「私は、コーヒーを淹れている」と「私はコーヒーを淹れていると信じている」の区別はある。

なぜなら、コーヒーを淹れていると信じていても、コヒーを淹れていないときがあるからだ。

ところで「コーヒーを淹れていると信じている」と「コーヒーを淹れていると信じていると信じている」の区別はあるのだろうか。もしないとすると、「私は・・・と信じている」には正誤の区別が無いことになり、知識ではないことになる。

行為遂行型発話「私は・・・と約束します」は、事実を記述していないので、真理値をもたない、とオースティンは言う。

 

■引用2

「ここでわれわれはようやく「実践的知識」(practical knowledge)を問題にすることができる。ある人が、ビルの建設のようなプロジェクトを、その進行状況を見ることも出来ず、その状況についての報告も受け取らないで、命令を与えるだけで指揮していると想定してみよう。彼の想像力(これは明らかに超人的なものである)は、そのようなプロジェクトの指揮者の場合に一般に観察者が果たす役割を演じている。彼は事態がどのようになされるかをただ頭の中で理論的に考えるだけの多くの者とは異なっている。そのような人々は多くの点を未決定のままで残しておけるが、彼はあらゆる事柄を一つの正しい順序で決定していかなければならない。この場合の、何がなされているかに関する彼の知識が実践的知識なのである。」(§45、邦訳、p. 156

 

このビル建設の指揮者は、進行状況を見ることも、状況についての報告も受けずに、指示を出しつづけて、ビルを建設する。「土台のコンクリートはもう十分に固まったので、つぎに鉄骨を立てる作業に入ろう」と彼が考えるとしよう。このときの彼の知識が実践的知識である。しかし、彼は、コンクリートの固まり方についてのこれまでの知識にもとづいて、推論していないだろうか。あるいは、コンクリート作業をしている作業員の仕事ぶりについての知識に基づいて、コンクリートが現在どのような状態にあるかを推論していないだろうか。

 

実践的知識は、「これがコーヒーの粉である」とか、「これが薬缶である」とか「これが水である」とかの観察による知識を前提して成立する。しかし、一旦成立したならば、それはそれらの観察による知識からの推論によって得られるのではない。では、ここでの、これらの背景知識と実践的知識の関係は、どうなるのだろうか。